*<처음읽는 독일현대철학>과 <<本当にわかる現代思想>을 계속 다룹니다.
이번에는 8장(아도르노)를 아래와 같이 공부합니다.
가/ 아도르노 원문 강독
나/ 발제(숙비), 20분
다/ 일본어 교재 강독
라/ 질의응답, 토론
조별토의는 없습니다. 학술장은 일본어 번역의 담당을 배분합니다.
이번 회에는 초청강연(소영광씨)이 있으므로 다른 꼭지는 생략합니다. 闇然而章은 32편입니다.
-漢文古典講讀(12시~1시)
-闇然而章(32편)
-공지
-굴에서 얼보기
-영원한-자기소개
-周天
-복습
*초청강연/ 소영광씨
-저녁식사(4시 30분~)
-교재 공부/(6시~8시30분)
-離別禮
なぜ啓蒙が暴力へと転化するのか? 啓蒙の弁証法・ファシズム批判・道具的理性
テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーはフランクフルト学派を創設 しただけでなく、ドイツ現代思想の起点ともなっている。二人は、第二次大戦中に 亡命先のアメリカで、『啓蒙の弁証法』を共同執筆した。 この本は最初、一九四四 年にアメリカでタイプ印刷され仲間うちで読まれていたが、一九四七年になってオ ランダの出版社から刊行された。
戦争終結後、二人はドイツへ帰国し、フランクフルト学派として研究活動を続け た。 『啓蒙の弁証法』は、アドルノとホルクハイマーの思想的出発点であると同時 に、フランクフルト学派の特徴を色濃く示している。
●「啓蒙の弁証法」とは何を意味するのか?
この本で、アドルノとホルクハイマーは、いったい何を問題にしたのだろうか。 執筆の時期が、第二次世界大戦中であることに注意したい。二人は、ナチス・ドイ ツから逃れるようにアメリカに亡命し、目前で進行している事態を何とか理解しよ うとして、次のような問いを立てた。「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入 れていく代わりに、一種の野蛮状態へと落ち込んでいくのか」。
この問いに対する答えが、「啓蒙の弁証法」である。しかし、本のタイトルにも なったこの言葉を、どう理解するかが問題である。まず、「弁証法」の方から考え てみよう。 これは、直接にはヘーゲルの「弁証法」に由来する言葉だ。意味として は、「あるものが、それ自身の内在的展開によって、まったく逆のものに転化する」 ことだ。 では、啓蒙の逆とは何だろうか。簡単に言えば、神話や暴力だと考えてよ い。
そこで、「啓蒙の弁証法」という場合、二つのプロセスが考えられる。一つは、 「神話」や「暴力」から「啓蒙」への転化である。これは一般に、「近代」という時 代の成立だと考えられている。 ところが、アドルノとホルクハイマーは、近代にお ける「啓蒙」が、今やその反対、すなわち「神話」や「暴力」へと転化しつつある、 と考えた。 図式化すれば、こうなる。「神話」・「暴力」 「啓蒙」- 「神話」・「暴 カ」。
● 文化産業論とファシズム批判
アドルノとホルクハイマーの問題意識を、「啓蒙の弁証法」という観点から理解 するとどうなるだろうか。二人の目前で進行していたのは、一 方ではラジオや映画、音楽といったアメリカの娯楽的な文化で あり、他方ではドイツやイタリアで勢力を伸ばしていたファシ ズム運動だった。さらには、遠くロシアで強化されつつあった 社会主義体制も、視野のうちに入っている。彼らは、こうした 事態のうちに、啓蒙が神話や暴力へと転化することを見てとっ たのだ。
ドイツやイタリアのファシズムが、啓蒙から暴力への転化で あることは、理解しやすいだろう。アドルノとホルクハイマー は、ファシズムの運動を「民族主義的パラノイア」と呼んで、 痛烈に批判している。パラノイアというのは精神病理学の概念 だが、思考が明晰のままで持続する妄想体系である。合理的な はずの啓蒙は、こうした狂気の妄想へと突っ走っていく。
啓蒙が神話や暴力へと転化するもう一つの現象が、アメリカ に代表される娯楽的な文化である。これをアドルノとホルクハ イマーは「文化産業」と呼んで、手厳しい批判を浴びせかけた。 ハリウッド映画などを考えると分かりやすい。文化がいわば産 業となって、「画一性」にしたがった製品を作り出し、それによって人間を規格化していく。娯楽的な文化では、自発的な思考ができなくなり、 人間を愚かにしていく。
● 道具的理性と管理社会
しかし、「啓蒙」はどうして「神話」や「暴力」へと転化するのだろうか。一見 したところ、「啓蒙」と「神話」・「暴力」は、まったく対立している。啓蒙は、合 理的な思考であり、神話や迷信を拒否することによって成立するはずだ。 それなの に、啓蒙が神話へ転化する理由は、どこにあるのだろうか。
アドルノとホルクハイマーは、「啓蒙」の特質を「道具的理性」と考えている。 道具的理性は、自然の個々のものから質の違いを消去して、すべてを量へ還元し、 計算可能性にもとづいて自然を支配する。 道具的理性はまた、個々人から主体性を 奪い取り、代替可能なサンプルへと変えてしまう。こうして、ファシズムにおいて も、文化産業においても、道具的理性によって人々が支配されていく。
アドルノは、この考えをのちに発展させて、「管理された世界」という概念を作 り出した。現代の管理された世界では、個々人の質的な差異は消去され、全体によ って一元的に支配される。このアドルノの管理社会論は、一時期かなり注目された が、今日の社会状況はずいぶん変化している。そのため、アドルノの概念が現代に おいてどこまで有効なのかは、あらためて検討すべき課題となっている。