*<처음읽는 독일현대철학>과 <<本当にわかる現代思想>을 계속 다룹니다.
이번에는 7장(벤야민)를 아래와 같이 공부합니다.
가/ 발제(유재), 20분
나/ 일본어 교재 강독
다/ 질의응답, 토론
조별토의는 없습니다. 학술장은 일본어 번역의 담당을 배분합니다.
이번 회에는 <토세명인>이 있습니다. 闇然而章은 31편입니다.
-漢文古典講讀(12시~1시)
-闇然而章(31편)
-공지
-영원한-자기소개
-周天
-복습
-낭영(朗迎)
-<유재통신>
-討世明人
-저녁식사(4시 30분~)
-교재 공부/(6시~8시30분)
-離別禮
神的暴力に革命の可能性を見る
・アウラ・神的暴力・歴史哲学テーゼ
ヴァルター・ベンヤミンを考えるとき、必ず思い浮かぶのが、悲劇の亡命者とい うイメージである。じっさい、大学での職を求めて提出した論文 「ドイツ悲劇の 根源』)は拒否され、在野の批評家として活動せざるをえなかった。 ナチスの台頭 とともに、亡命を余儀なくされるが、一九四〇年には追いつめられて服毒自殺を図 った。この間、「パサージュ論」と呼ばれる膨大な草稿が残されたけれど、その全 貌が印刷物となったのは、ずっと後になってからだ。 フランクフルト学派に協力し とはいえ、決して中心を担ったわけではなく、距離をおきながら参加している。
◎複製技術時代における芸術
フランクフル学派の機関誌『社会研究雑誌』に寄稿したベンヤミンの論文で、最 も有名なものが「複製技術時代の芸術』だろう。この論文は、「アウラ」という言 葉によって、ベンヤミンの名を広めた。しかし、この論文はよく知られているわり には、必ずしも十分理解されているとは言えない。もともと、「アウラ」という言葉じたいが曖昧であるだけでなく、ベンヤミンがこの論文で何を意図し たのかも明瞭とは言えない。
いったい、「アウラ」とは何だろうか。「アウラ」というのは、英語風 に言えば「オーラ」であるが、ベンヤミンは芸術作品のもつ「今、ここ にしかない」という唯一性・一回性を示す「雰囲気」として使っている。 ベンヤミンによると、現代の複製技術時代になって、「作品のもつアウ ラ」が失われていく。逆に言えば、複製芸術以前の作品には、こうした 「アウラ(オーラ)」が漂っていた、というわけだ。
問題はここから先である。ベンヤミンは、複製技術時代に対して、ど んな態度を取ろうとするのだろうか。複製芸術として、ベンヤミンがお もに念頭においているのは映画である。映画では、同じ場面を何度も撮 り直し、そのあとノリとハサミで編集して、作品を作り上げていく。 フ アシズムはこの映画を利用し、「政治を美化」して大衆を支配している。 これに対して、ベンヤミンは逆に「芸術を政治化」しようとするのだが、 具体的にどうするかは明らかではない。
◎暴力批判論
今度は、比較的はじめのころに書かれた『暴力批判論』を考えてみよう。この論文は、フランスのデリダが「法の力』で取り上げたので、近年あらためて注目が集まった。ベンヤミンは第一次世界大戦が終わった後、ドイツの革命に呼 応するかのように、この論文を書き上げている。この論文で 「批判」 と語られてい るのは、非難したり反対することではなく、分析して判定することである。では、 ベンヤミンは「暴力」をどう理解したのだろうか。
一般に、「暴力」といえば、「法」と対立し、「法」 から逸脱した行為だと考えら れている。そのため、暴力があれば、法は取り締まる。 ところが、ベンヤミンは 「法」そのもののうちに「暴力」が潜んでいることを暴き出したのだ。 一つは「法 を維持する暴力」である。 法を維持するためには、暴力の支えが必要になる。もう 一つは、「法を措定する暴力」である。 新たな勢力は、暴力的に政府を転覆し、法 を新たに設定しなくてはならない。
「法を措定する暴力」と「法を維持する暴力」は、相互に依存しつつ現われること がある。たとえば、革命などでは、「法を措定する暴力」が求められ、いったん政 府が樹立されると、「法を維持する暴力」が必要になる。こうした暴力は、たえず 続き、終息することがない。これをベンヤミンは、「神話的暴力」と呼んでいる。 これに対して、暴力の行使によって、あらゆる暴力が終息するような暴力を「神的 「暴力」と呼んでいる。 しかし、神的暴力にかんして、ベンヤミンはその内実をほと んど語っていない。
◎「歴史哲学テーゼ」におけるメシアニズム
「神的暴力」という言葉には、ベンヤミンの神学的な発想がよく表現されている。 ここで神学的発想というのは、彼の「メシアニズム」を意味している。ベンヤミン は、服毒自殺を図るまで、ある原稿を肌身離さずもち歩いていた。それは『歴史の 概念について』という短い論文だが、通称「歴史哲学テーゼ」と呼ばれている。こ のテーゼにおいて、ベンヤミンは「メシア的なもの」に繰り返し言及するのだ。 そ こで、「メシア的なもの」の意味を確認するために、絶筆となった「歴史哲学テー ゼ」を見ておこう。
ベンヤミンによると、マルクス主義の歴史的唯物論 (「唯物史観」)は、神学的な メシアニズムによって補完されなくてはならない。俗流のマルクス主義は、人類の 進歩を信じて、未来へと目を向ける。ところが、こうした考えは、「均質で空虚な 時間をとおって歴史が進行する」と見なすことだ。ベンヤミンはこの歴史観を批判 し、まったく対立する時間把握を提起している。それをベンヤミンは、「今という 「時間」という表現で語った。
一回限りの「今という時間」は、「アウラ」を思い出させる言葉であるだけでな く、最後の審判を予感させる。ベンヤミンはこの歴史意識のうちに、革命の可能性 を考えたのである。